前稿、前々稿でそれぞれ下の写真の黄色の破線部分の痕跡を見てきたので、最後に赤い実線の部分の痕跡を確認することにしましょう。
前もって、前稿、前々稿を確認されたい方はこちらからどうぞ。
まずは痕跡探しから・・・
続けて読んでいただいている方はすでにお気づきのことと思いますが、痕跡の確認は建物の面ごと、それも柱や梁などに囲まれた小さな単位に区切って見ていくのが定石です。このシリーズ(case2)は、三重県にある著名な町家の勝手口回りを対象としていますが、今回、この面(開口部)を見れば勝手口全体をひととおり見たことになります。
まずは柱の内側を見ましたが、改造が行われた形跡はありませんでした。と言ってもがっかりする必要はありません。改造が行われた形跡がないということは、「その建物が建てられた時から開口部であり、その後も改造が行われなかった」ことを示す「痕跡」だからです。
上の写真を見ると、柱の間には土間高(どまだか)(※土間に人が立った時、頭が当たらないで通れる高さ。5尺9寸~6尺程)で鴨居が通されています。本来はあるはずの土台(どだい)(※柱の根元を横につなぐ材。建物の重さを支える構造的に重要な材。)は腐ってしまったためか、それとも必要がなくなったためかすでに取り払われているようです。
では定石に従って、この開口部に入っていた建具の痕跡を探すことにします。下の写真は、鴨居の下面に彫られた建具を通すための溝です。
2本の溝(青色の矢印)が彫られていますが、奥では(写真の下)では、もう1本溝(黄色の矢印)が彫られています。2本の溝は開口部の間口いっぱいに彫られていますが、1本の溝は開口部の間口の奥側半分の幅しかありません。また、2本の溝(青色の矢印)は建物の内側(写真では右側)に寄せられています。これは、1本の溝(黄色い矢印)を入れる幅を確保するためと考えられ、3本の溝は同時に彫られたものと判断できます。
こうした鴨居の溝の形状からは、幅の狭い奥側の1本溝に板戸をはめて戸袋とし、内側の2本の溝には板戸と障子戸を入れていたと解釈されます。
この部分の変化を整理すると・・・
以上のことから、この勝手口は、以下のように変化したと考えられます。
(1)建築当初は、開口部の半分を戸袋とし、半分に板戸・障子戸を入れていた。
(2)戸袋・建具を外した。
※勝手口より奥に附属屋が接続された段階で、屋外であった部分が屋内となり、屋外とを仕切っていた建具が必要なくなったものと考えられます。土台の撤去はこの時に行われた可能性もあますが、さらに後になってからとも考えられます。
建築当初の勝手口を復原してみる
勝手口回りの痕跡をひととおり見終わり、それぞれの部分の変化が整理できたところで、勝手口回りの建築当初の姿を復原してみたいと思います。
今回痕跡を確認した3つの面は、それぞれ最初に建築されて以降、1回から2回の改造が行われています。改造は面ごとに行われますから、相互の改造の前後関係は改造内容の関連性などを慎重に検討する必要があります(次稿(case2-4)で予定しています)が、それぞれの面の最初の状態は建築当初に同時に行われたことと判断できます。
まず、左手の土壁は土壁でした(井戸用の扉が取り付けられるのは後のこと)。次に中央も土壁でした(土壁が取り払われるのは後のこと)。そして、右手の開口部は右半分が戸袋で、左側半分に板戸と障子が入れられていた。ということになります。
現在は左手に設けられた窓から明るい光が射し込んで明るい土間になっていますが、建築当初は土壁と板戸に囲われて真っ暗だったことが容易に想像できます。そのように想像できると、開口部の右手上部(戸袋の上部ということになります)に設けられた小さな格子戸の意味が理解できます。
次回はcase2の最終回です。面ごとの変化の前後関係を整理して、勝手口回りの変遷を明らかにします。
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