関宿まちなみ研究所 HOME Blog Entry,Technical report まち歩き(町と家の歴史) ~痕跡を読む(case4-5)~

まち歩き(町と家の歴史) ~痕跡を読む(case4-5)~


 case4-1からcase4-4まで気になった建物の細かい部分ばかりを見てきましたので、改めて建物全体を見渡してみたいのですが、一旦休憩ということで、「赤レンガ商家」の歴史を辿りながらまちをブラブラと歩いてみることにします。


まちの成り立ちと「赤レンガ商家」

 「赤レンガ商家」は、高知県の東部、香南市赤岡町にあります。香南市は、高知県中部を流域とする河川、物部川(ものべがわ)が土佐湾に注ぎ込む河口部に開けた香長平野(かちょうへいや)の北東部(物部川の東岸)にあたります。平成18年(2006)に香美郡赤岡町・香我美町、野市町、夜須町、吉川村が対等合併して誕生したしました。市の名前は、旧香美郡(かみぐん)の南部を占めていることに由来します。香長平野は山地がほとんどの高知県では最大の穀倉地帯です。このため、生産された農産物の集積、農村部に暮らす人々の生活物資の流通のため町場が発展していました。赤岡町、野市町はこれにあたります。

 赤岡町は、香南市のほぼ中央部を南北に流れる香宗川(こうそうがわ)の河口部にあります。町は河口部で大きく蛇行する香宗川と土佐湾との間にできた砂丘上にあります。土佐湾岸の特に東部沿岸地域では、こうした海に面した砂丘上に古くから町が発展していて「浦(うら)」と呼ばれていました。険しい四国山地を控えた土佐国では、山越えの峠道もありましたが、土佐湾の沿岸部を船で伝っていく舟運が主な交通手段でした。藩主山内氏の参勤交代も、四国山地を越えて伊予国にぬける「北山越え(きたやまごえ)」が使われたのは享保3年(1718)からで、それまでは海伝いに室戸岬を越えて、阿波国(現徳島県)にぬけていました。

※土佐湾の東部沿岸には、参勤応対や領内巡視の折に藩主が休泊したという建物がいくつか残っています。田野町にある「岡御殿」は、天保15年(1844)に建築された藩主休泊のための御殿で、県有形文化財に指定されています。また、山越えの街道(「北山越え」)では、寛政年間(1789~1800)の建築と伝えられる「旧立川番所書院」【国重要文化財】(大豊町)があります。

「岡御殿」【県有形文化財】(田野町)
「旧立川番所書院」【国重要文化財】(大豊町)

 赤岡(浦)は、もともとはこうした土佐湾岸を伝う交通路の中継点として舟運に従事した多くの「水主(かこ)」(船頭のこと)が居住していましたが、江戸時代になってからは宿場としての役割や、広い農村を控えた在郷町として商業が発展しました。このため、赤岡の町並みには古い町家が数多く残っています。「赤レンガ商家」もそうした赤岡の往時の賑わいを伝える古い町家の一つです。

 高知から東・徳島方面に向かう街道は、土佐湾岸を海伝いに大回りをして向かうため「土佐浜街道」とか「土佐東街道」とか呼ばれています(現国道55号線)。高知方面から赤岡の町へは、北から香宋川にかかる赤岡橋を渡って入り、橋を渡ったところが横町(現在の住居表示では「北町」)です。横町の長い上り坂を登りきると矩折れ(直角に曲がること)になっていて、そこから東に本町、江見町が続きます。本町・江見町は赤岡がある砂丘の尾根になっており、街道は尾根筋をそのまま岸本浦まで続いていきます。

赤岡の町並み(横町)

 「赤レンガ商家」は本町の東端、江見町との境あたり、街道の北側にあります。「赤レンガ商家」と親しまれていますが、建物の前に掲げられた説明板には「初代村長・小松与右衛門邸」とあります。
 小松与右衛門については「弘化元年(1844)に生まれ、少年期に寺尾酒造へ丁稚に入り、琴月堂へ通い学問を身につけ、長じて寺尾から暖簾分けされて独立。酒造りに専念した。明治23年(1890)初代村長となり、私財を投じて香宗川の治水工事で新田を開発、また赤岡小学校を正福寺跡へ建設した。明治44年67歳没。」と書かれています。

 この説明文に出てくる「寺尾酒造」は、同じく赤岡で安永年間(1772~1781)から大正~昭和初頃まで酒造をしていた造り酒屋です。寺尾酒造8代梅太郎は、明治34年(1901)に名誉町長を務め、赤岡銀行を設立したという赤岡の名士です。梅太郎は大正9年没なのでおそらく小松与右衛門とはほぼ同年代です。小松与右衛門は寺尾酒造の丁稚から始め、1代で町長にまでなっています。大出世ということでしょうか。

※寺尾酒造は昭和の初め頃に廃業しましたが、寺尾酒造の酒の商標「豊能梅」は、これも同町内で現在も酒造業を営んでいる「高木酒造」が昭和3年(1928)に譲り受けています。

 「赤岡銀行」は明治33年(1900)に赤岡商人が設立した銀行です。香南市の史跡に指定(H22.8.2)されている「赤岡銀行跡」は現在の四国銀行赤岡支店です。銀行として引き継がれてきているということでしょう。

 「琴月堂」については、「細木淳蔵の寺小屋「琴月堂」跡」が香南市の史跡に指定(H22.3.1)されており、寺小屋であったことはわかりますが、それ以上の詳しいことは知りません。細木淳蔵も著名な書家らしいです。

 「赤岡小学校を正福寺跡へ建設した」という点については、「赤レンガ商家」のすぐ北側(裏町)にある現在の赤岡小学校の正門前に「正福寺跡」の説明板があるので、現在の赤岡小学校は小松与右衛門が建設に尽力した学校のOBなのだろう。小学校HPの「赤岡小学校の歴史」を見ると、明治6年(1873)に「赤岡町裏町正副寺(ママ)廃跡に赤岡小学校を設ける」。明治8年(1875)郡役場を払下げ売却し、正副寺敷地を買い入れる。当時教員4名、児童数127名」とあります。
 「郡役場を払下げ売却し、正副寺(ママ)敷地を買い入れる」という表現は、なんだか土地ころがしみたいで少し違和感がある。明治6年なら小松与右衛門はまだ村長ではなく学校を設立する民間側にいて、学校用地として郡役所があった土地(の全部か一部)の払下げを受けたということだろうか。とすれば、すでに廃寺となっていた正福寺が「郡役場」として使われていたということになるのだろうか。町巡りのためのパンフレットでは小学校の東部分(体育館があるあたり)は、郡役所や町役場、簡易裁判所、税務署、検察庁などに使われた場所らしいので、こんな想像も案外間違ってはいなさそうだ。

 さて、与右衛門がいくつで独立を許されたのかはわかりませんが、明治6年の赤岡学校の設立や明治8年の学校敷地の払下げに係ったとすれば、これに先立つ幕末から明治初年頃と考えれれます。現在の屋敷を取得するのも同じ頃と考えてよいでしょう。与右衛門が得た屋敷の周りに、小学校の建設、初代村長といった与右衛門の事績に関係する場所が集中していることに、なんだか興味が湧きます。


まちのあちこちにある説明板

 赤岡のまち通りには、あちこちに説明板が建てられています。それらを読みながらまちを巡るだけで、まちの成り立ちがある程度理解できるので、とてもありがたい存在です。さらに、最近は便利な世の中になったもので、周辺の地理や少し疑問に思ったことはスマホですぐに検索することができます。もちろん、説明板に書かれていることやネット検索の結果には誤りやイメージ操作もあるのでそこは十分に注意が必要ですが、建物を見渡す前の予備知識としてはこれで十分です。

 「赤レンガ商家」のある屋敷とその周辺がどのように発展したのかについては、改めて機会を作ってもう少し深く探ってみることにします。

(つづく)

~シリーズ 痕跡を読む~

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