現在、「赤レンガ商家」の前面、通りに面した部分は土足で行き来ができる土間になっています。「赤レンガ商家」は大正15年(1926)に所有者が小松家から宗石家に代わり、宗石家が当時は珍しかった誂えの靴店「宗石靴屋」を開業しました。ミセの間の西側の壁には靴製造のための型枠や加工道具が並べられています。現在のミセの間の姿は、この建物が「宗石靴屋」として使われていた当時のものと考えられます。
では、小松与右衛門が暮らしていた当時はどのような姿だったのでしょうか。今回は「赤レンガ商家」のミセの間の床(ゆか)に注目します。
ミセの間
町場の建物である町家では前面の通りに面した位置にある部屋のことを「みせ」と呼ぶことが多くあります。「みせ」を「店」と漢字で表すと「商品を陳列して売る場所」をイメージしますが、「みせ」は「見世」とも書き、「見世」と表すと町家の通りに面した位置にある部屋とのイメージに近づきます。“世間が見える(に見せる)場所”とでも読み替えればよいでしょうか。
このようなニュアンスの違いがあることから、古い時代に建てられた建造物を主題としてる本ブログでは、町家の前面にある部屋のことを「ミセ」・「ミセの間」(括弧無し)と記すことにしています。
※その建物に実際に住まわれている(た)方が「みせ」・「みせのま」と呼びならわしている(た)部屋がある場合には、「みせ」・「みせのま」(括弧付き)と記します。
本ブログで、町家のミセの間を表記するのに「店」の漢字を使わないのにはもう一つ理由があります。町家のミセの間が、何らかの商品を並べ販売する商店にだけあるものではないからです。職人はミセの間を作業場として使います。また、旅籠屋では旅人の荷物の置場として使われます。商売を行っていない仕舞屋(しもたや)では、居室として使われていることもあります。つまり、商品を陳列し販売するという機能よりも、通りに面した位置にあるということに普遍性があると考えるからです。
ということで、前置きが長くなってしまいましたが、ミセの間の床の痕跡を探してみることにしましょう。
ミセの間の床の痕跡
ミセの間の床の痕跡は、座敷との境の上がり框の側面に、ミセの間の上がり框と床大引(おおびき)のほぞ穴が並んでいるのが確認できました。上がり框は土間と床の段差のところに設ける横木のことで、土間側から側面が見えるため太い化粧材が用いられます。大引とは床を支える構造材で、大引の上に根太を載せ床板を敷きます。写真では、一番右の赤矢印と黄矢印が上がり框の痕跡で、その他の赤矢印・黄矢印が大引のほぞ穴です。
赤の上がり框痕跡は形が普通の上がり框とは違っていますが、ここではひとまず上がり框と判断しておきます。また、上がり框が柱の位置でないことを変に感じられるかもしれませんが、この柱はcase4-1で後補と判断しています。
大引は普通等間隔に入れられます。大引き穴は等間隔に並んでいませんが、赤矢印と黄矢印に区分するとそれぞれ等間隔で並んでいることが分かります。これら2系統の床が同時に存在することはあり得ないため赤と黄の床は全く別物で、ミセの間の床には赤と黄の2時期があったことが明らかです。
2時期のミセの間に関連する別の痕跡
確認のため、2時期のミセの間に対応する別の痕跡を探してみることにします。
土間の仕上げに注目すると、赤の上がり框より東ではレンガがきれいに敷き詰められていますが、赤と黄の上がり框の間には漆喰が塗られており、床下との境は延石(上写真の青矢印)で区切られています。黄の上がり框より西は目地の大きなレンガ敷です。きれいなレンガ敷は赤の上がり框があった時の土間仕上げ、漆喰塗は黄の上がり框があった時の土間仕上げ、目地の大きなレンガ敷は床が取り払われた後の土間仕上げと考えられます。
また、きれいなレンガ敷と漆喰塗との境には礎石(下写真の赤矢印)が確認できました。上がり框を中央で支える束が乗せられていたと考えられます。レンガ敷と上端が揃っていて礎石らしく見えないかもしれませんが、これはcase4-7で取り上げた扉式の大戸を開いた時に邪魔にならないように上端が揃えられたのだと考えられます。一方、黄の上がり框の位置に対応しては、床束や地覆を置いたと考えられる延石が見つかりました。この延石は土間の奥行の中央辺りにあり、直角に折り曲げられています。このことから、黄いろの時期のミセの間は土間に張り出した縁のような形であったことが分かります。
二つの床の前後関係は、土間の仕上げからも赤矢印に対応する床がもっとも古く、黄矢印に対応する床がその後の改造で、最終的にすべての床が取り払われて現在の姿となったと判断できます。
ただし、上がり框の側面の仕上げは比較的綺麗で、赤矢印の床自体が改造によるものである可能性も完全には否定できません。この場合には、上記の変化以前にミセの間がすべて土間であった時期が存在したことになります。また、二つの框位置に対応している土間の仕上げも、それぞれの上がり框が入れられた時の改造ということになります。
別系統の床痕跡
明らかな痕跡を見つけてしまうと、他の痕跡を見失ってしまう失敗をよくしてしまうのですが、今回は忘れず確認することができました。というのも、case4-7で確認した大戸口痕跡と重なっていたからです。下の写真は、大戸口の西側の柱北面の痕跡ですが、赤の上がり框のちょうど南側に位置しています。
大戸口の痕跡として解説した丁番金物の釘穴がありますが、その周りに2つの上がり框痕跡が確認できます。
まず右側の框痕跡は、北側の赤の上がり框に対応する上がり框の痕跡です。ほぞ穴の形を見てみると、左上の角が少し丸く仕上げられています。丸く見える部分は「面(めん)」と呼ばれるもので、面があるということはこの部分が框の角であったことを示しています。つまり、写真右手側(西側)には床があり、左手側(東側)は土間であった訳です。
上がり框は普通柱の芯に入れられますが、この上がり框は右手(西)に寄っています。一方、丁番の釘穴は左手(東)に寄っています。これは両者を干渉させずに柱の中に納めるために行われたものと判断でき、双方が同時にあったことの証とも言えるのですが、少し変に感じた北側の上がり框の形は大戸と上がり框の双方を柱内に収めるためと理解できます。
もう一つの上がり框痕跡は、赤のミセの間に対応する上がり框痕跡の左側(東)にあります。この上がり框の痕跡は大戸の丁番金具の釘穴部分を切り欠いており、大戸が取り外された後の改造と判断できます。また、この上がり框の痕跡に対応する北側の上がり框痕跡は、case4-1で新しいと判断した柱にありますので、この点も矛盾はありません。
上で示した赤・黄の床との時間的な前後関係は、赤と黄の中間と考えられます。それは、赤と黄の上がり框の間に別の床痕跡が無く、一旦西側に縮められたミセの間の床を再び東側に広げるという変化が想定できないためです。また、case4-1で新しいと判断した柱は、赤の上がり框がすでにあったために、これを避けてるように東側にずらせて入れられたと考えられます。
ミセの間の上がり框位置の変化
以上から、ミセの間の上がり框には3時期があったことが明らかとなりました。
まず最初の上がり框は赤の上がり框です。この上がり框は大戸口の大戸との関係で位置が決められていますから、建築当初のものと考えて間違いありません。
次は、この赤の上がり框の東に別の上がり框が追加されます。この変化は、扉式の大戸を取り払うことと、北側に新しい柱を入れた後に行われたと考えられます。改造の動機は、土間からミセの間の見栄えを強く意識したのではないかと推測します。土間にきれいにレンガを敷いたのもこの時だと考えます。
次は、上記2時期の上がり框が取り払われて新たに黄の上がり框が入れられ、ミセの間は西に縮小されました。ミセの間の縮小は同時に土間の拡大を意味します。土間を広く使う必要が生じたのだと推測されます。
最後に、黄のミセの間が取り払われ、ミセの間がすべて土間とされます。さらに土間を広く使う必要が生じたのでしょう。
(つづく)
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