本日は、関宿を題材とした講座をご開講いただきありがとうございます。これからの講座を担当させていただきます「関宿まちなみ研究所」と申します。よろしくお願いいたします。
まず、お詫びを申し上げなくてはなりません。当初の予定では、関宿で座学とともに現地を見学いただく予定でしたが、コロナの感染拡大による緊急事態宣言発令ということもあり、急遽web講座となりました。現地をご覧いただけない環境ですので臨場感に物足りなさを感じられるかもしれませんが、どうかよろしくお願いいたします。
それでは、早速講座に入らせていただきます。
「関宿のまちなみ保存について」という題でお話をさせていただきます。
※この投稿は、先日、コロナ緊急事態宣言下でさせていただいた関宿に関するweb講座の口述原稿を基に、うまく話せなかったこと、話しきれなかったことなどを含め、加筆修正したものです。
1)関宿のご紹介
関宿は三重県の北部、亀山市にあります。
鈴鹿山脈の東麓、伊勢平野から鈴鹿山脈に差し掛かるあたりにある宿場町です。江戸時代、江戸と京とを結んでいた東海道の宿場町のひとつです。東海道に江戸日本橋と京三条大橋との間に53の宿場町がありましたが、関宿は江戸から数えて47番目の宿です。
関宿が東海道の宿場となったのは、慶長6年(1601)のことです。この時、徳川家康から渡された「駒の朱印状」が、現在でも旧本陣家に残されています。
この「駒の朱印状」には、その宛名が「関地蔵」と記されています。地蔵とは、関宿のほぼ中央にある古い寺「地蔵院」のことで、関宿は「地蔵院」の門前町的な集落から発展したとされています。
現在、関宿には10ケ寺がありますが、寺々が立地した年から、宿の発展の様子を知ることができます。まず、関宿の中央「中町(なかまち)」にある寺は、いずれも永禄年間から天正年間という、江戸時代に入る少し前頃に立地しています。次に、東側の「木崎(こざき)」と呼ばれる地域を見ると、寛文年間から元禄年間、17世紀中頃~後半にかけてです。最後に、西側の「新所(しんじょ)」と呼ばれる地域は、17世紀中頃です。
このことから、関宿が宿場となった江戸時代の初めには、中央にある「中町」を中心とした集落であったものが、17世紀の中頃から後半にかけての時期には東西の木崎・新所にまで拡大、発展していったことが窺えます。
関宿には、寛文(17世紀中頃)、元禄(17世紀末~18世紀初)、寛政(18世紀末~19世紀初)の3つの時期の宿場絵図が残っていますが、これらを見比べることで、17世紀の中頃までに現在の規模にまで発展した町並みが、江戸時代が終わるまで維持されていたことが分かります。
江戸時代が終わり、近代を迎えると、町の様子は一変します。明治23年(1890)、関西鉄道(かんせいてつどう)(現 JR関西本線)が開通すると、街道を通る人は減少し、旧東海道に面したまちなみは寂れていきます。第二次世界大戦後には、まちなみの南側を国道1号線が通ることになり、車の通行も少なくなりました。しかし、このことが古いまちなみを残す結果になりました。
関宿は、東西約1.8キロメートルの長さがあり、街道の南北にあわせて約400棟の建物が並んでいます。街道に面したひとつひとつの屋敷は、間口が狭く、奥行きが長い、いわゆる「うなぎの寝床」と呼ばれるものです。
それぞれの屋敷には、街道に面して「主屋」(しゅおく・おもや)が隣と軒を接するように配置され、その奥に坪庭、離れ、納屋・土蔵などが並んでいます。
間取は、建物の片側に表から裏まで通じる「通り土間」がり、この通り土間に面して3~4室が並ぶ形式で、町屋に典型的なものです。一般的な大きさの建物は間口が3間半程度で「通り土間一列型」になりますが、間口が大きなものになると、居室が2列に並んた「通り土間二列型」になったり、通り土間の一部に「シモミセ」を構えるものもあります。関宿では、この通り土間が東側に配置されるのが一般的です。
正面意匠を見ると、二階前面を漆喰で塗籠める「大壁(おおかべ)」のものと、柱や梁といった木材が見える「真壁(しんかべ)」のものが混在しています。大壁のものには、漆喰で塗籠めた竪格子の窓「虫籠窓(むしこまど)」が付けられています。一方、真壁のものには建物の両袖に「そで壁」が付けられています。これらは、いずれも建物が密集した町での火災への備えと考えられています。
関宿のまちなみは、この二つの形式が混在していることが一つの特徴と言えるのですが、この二つの違いは、まちなみ景観にも異なる印象を与えています。大壁のものは、壁が白く光を反射して目立つとともに、軒の出が小さいため開放的な印象を与えます。一方、真壁のものは軒を深く出してまちなみに覆いかぶさるようです。
二階正面は、先に言いました通り大きく二つに分かれますが、一階の前面はほとんど共通しています。現在は格子戸をはめるものが多くなっているのですが、江戸時代にまでさかのぼると、ほとんどの建物は「すりあげ戸」になります。「すりあげ戸」は柱の側面に付けた溝に沿って、板戸を上下させる(摺り上げる)形式の建具で、一階と二階の境目に戸袋があります。座敷(正面から見て西側)の前面に「出格子戸」が付けられたものもありますが、これは明治時代以降に取り付けられたものです。
2)関宿のまちなみ保存の経緯・経過
次に、関宿のまちなみ保存の経緯・経過についてお話します。
関宿でまちなみの保存が始まったのは、昭和55年(1980)の事です。
昭和55年(1980)、鈴鹿郡関町(当時)で町並み保存条例が制定され、昭和57年には「伝統的建造物群保存地区」の都市計画決定、昭和59年には国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されて国の文化財になりました。まちなみ保存が始まってからすでに40年が経過しているということになります。
日本で町並みの保存が文化財保護制度として始まったのは、昭和50年(1975)の文化財保護法改正により「伝統的建造物群保存地区」の制度が創設されてからです。関宿が国の文化財である「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたのは全国で20番目のことですから、比較的早い時期にまちなみ保存が始まり、文化財として認められていることになります。
ちなみに、令和2年(2020)12月現在、全国の重要伝統的建造物群保存地区は、43道府県、101市町村、123地区ありますが、三重県では現在でも関宿の1地区のみです。
関宿で町並み保存が始まった当時、古い建物に規制をかけて保存することに反対する住民が多くあったようですが、当時の町長山内氏が反対を押し切り、強いリーダーシップで町並み保存に踏み切ったと聞いています。
当時の町の様子はこの写真で知ることができますが、寂れた田舎町といった感じです。
山内町長のお考えは「地域を振興するため観光に力を入れよう」というものだったようです。この考え自体は進んだ考えだったのではないかと思うのですが、残念ながら住民の理解は得にくく、町並み保存事業が細々と進み、住民はしぶしぶ協力するという状況がしばらく続いたようです。こうした経緯から、関宿のまちなみ保存は「行政主導型」と言われていました。
町並み保存を目指す住民団体の全国組織に「全国町並み保存連盟」というのがありますが、その全国大会である「全国まちなみゼミ」が東京で開催された折(昭和57年(1982))、山内町長が記念講演をされています。
当時の町並み保存は、住み慣れた町を保存したい住民と、開発を目指す行政とが激しく闘っている時期でしたから、「行政主導型」で町並み保存を始めた山内町長は大変珍しい存在だったのだと思います。
私は、大学1年の夏、先輩とともに「全国まちなみゼミ東京大会」に参加していました。残念ながら、山内町長が壇上にいらっしゃる姿は記憶にあるものの、何を話されたのかまでは全く憶えていません。
そんな、ワンマン町長でしたから、最初は自分勝手に町並み保存をやっていたようです。当時の修理・修景事業の結果が今も町並みには残っていますが、知識・情報がない中で、手探りだったのだろうと思います。ただ、国の文化財になった以上、そんな自分勝手なまちなみ保存ではいけないということで、国の補助事業が始まった昭和60年には、個々の建造物の修理指導を担当される専門職員が町に採用され、教育委員会の方々のご努力もあって修理修景事業は順調に進むようになり、住民の理解も徐々に得られるようになっていったと聞いています。
この時担当されていた専門職員の方が、あるシンポジウムで、着任された当時のことを「ドイツ軍ばかりの中に落下傘で降りた連合軍の兵士みたいだった」と述懐されていたことを印象深く憶えています。住民の説得に苦労された様子がしみじみと伝わってきます。
それでも、選定後10年を経た頃には、保存修理修景事業の実績もかなりの数になり、まちなみが目に見えて綺麗になり、見学に来られる方も目に付くようになり、ようやく住民も町並み保存の意義や効果を実感するようになっていきます。この頃には、町並み保存の方向性も「観光化」ではなく、「生活しながらの保存」がテーマとされるようになっていました。この「生活をしながらの保存」については、後ほど改めて述べることにします。
(つづく)