関宿まちなみ研究所 HOME Blog Entry,My own 唐突に伝建担当者になる

唐突に伝建担当者になる


「建物・町並みの保存に関わる仕事をしたい。」というのは学生時代からの夢でした。業界に詳しい指導教官O教授には、「設計事務所で10年くらい修行してからチャレンジしなさい。」と言われていたため、半分あきらめかけていたのですが、平成4年の春、機会は突然に訪れました。
「奈良井宿」(当時:長野県木曽郡楢川村、現在:塩尻市)の保存担当者になることになったのです。

※「突然」の経緯や背景はまたいずれ書くことにします。

 「奈良井宿」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された中山道の宿場町で、重伝建地区としては同じく中山道の「妻籠宿」ほどではないにしろよく知られた存在でした。そんな有名な重伝建地区の担当者を、私のような技術も経験もない、それこそ素人と言っても良いような者がやってもいいものかとの不安はありましたが、そうそうあるチャンスではないこともわかっていたので、迷わず乗せていただくことにしました。

 学生時代から町並み保存に興味は持っていたので、「全国まちなみゼミ」(全国町並み保存連盟が毎年開催していた町並み保存に関わる住民団体の全国大会)などには参加していましたから、町並み保存についての知識はそれなりに持ってはいたのですが、文化財の保存制度である「伝建(「伝統的建造物群」の略)」についての知識は余りありませんでした。

 文化庁では、その頃から「伝統的建造物群保護行政研修会(基礎コース)」を始めていました。これは、自治体で文化財を担当する職員が、伝建制度の基本的な考え方や保護実務を学ぶための研修です。私は、奈良井を担当する以前の平成2年か3年に、たまたま受講していました。千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館と佐倉の町並み(武家屋敷)を会場とした3泊4日の合宿研修で、40~50名程が受講していたのではないでしょうか。
研修の前半は座学でしたが、後半は佐倉の町並みを題材としたフィールドワークで、保存地区の設定や伝統的建造物の特定などを、10人程のグループで議論しながら進めるというものでした。
 研修を受けていたのは、伝建地区の担当者もいたと思いますが、これから伝建制度を取り入れようとしている市町村の職員もいました。当時、伝建担当者に建築系大学出身者はおらず、それまでの文化財担当者がそのまま担当するというのが普通だったでしょうから、この研修は内容的にとても厳しいものだったと思います。私と同じ時に研修を受けた方と、後に「伝建担当者」としてお会いしたこともありました。

行ってみて初めて分かった恩師の言葉

 着任して初めて気づいたことは、伝建制度が文化財保護の制度であって、町づくりではないということでした。
この言い方では語弊があるかもしれませんのでもう少し丁寧に言えば、伝建制度は一つひとつの伝統的な建造物を修理することの積み重ねを基礎として、最終的に町づくりにつなげていく制度だという事です。

 考えてみれば、私は古い建造物を調査することについては他の人より多くの経験を積んでいましたし、町づくりについても都市計画コンサルタントでアルバイトをした経験はありましたが、修復の設計・積算や監理の実務は経験したことがありませんでした。
 これはマズイことになったと、この時初めて恩師の言葉の意味が理解できたのでした。

 とはいえ、誰にも相談することはできません。前任者はすでに村を離れていましたから文化財担当者は私一人しかいません。伝建自体がまだ余り認知された制度ではありませんでしたから、教えを乞う熟練者もいません。そして、何しろ私は「プロ」として村に迎えられていましたから。

 今なら、他の保存地区を視察に行ったり、近くで行われている文化財の修復現場を見学するとか、いろいろな方法が考えられたと思うのですが、当時はそんな知恵も人脈もありませんでしたから、とにかく誰にも知られないうちに、自分で学び経験するしかないと思うようになっていました。

 とにかく「奈良井」の修理現場に行っては一日中大工さんの仕事を見ていました。大工さんの加工場にも入り浸っていました。図面も当時はまだCADは一般的ではなく、すべてが手書きでしたから設計の変更による描き直しは特に面倒でした(こん時の経験から格子戸はあまり好きではありません。)。そうこうしながら1年、2年を経過すると、大工さんの仕事やその手順といった現場の動きが理解できるようになり、図面もそれなりに描けるようにはなりましたが、積算についてはどうしても自信が持てませんでした。

新米伝建担当者の楽しみ

 そんな、独立独歩を気取った新米伝建担当者が、楽しみにしていたことが3つありました。
 一つは「全国伝統的建造物群保存地区協議会総会」(重要伝統的建造物群保存地区を有する自治体の全国協議会)の折に行われる視察と担当者の研修会です。この会では、開催地の町並みをその地区の担当者の説明でじっくりと見ることができましたし、研修会での担当者間の議論や交流から様々な示唆が得られました。

 二つ目は、名古屋で設計事務所をしていたH氏の来訪でした。H氏は東海地方の文化財建造物を中心に修復設計をしていた民間の建築士さんです。妻籠や奈良井での伝建修理の設計も担当したことがあり、お会いした折には修理設計や現場監理の具体的な疑問をお聞きすることができました。

 そして最後は、たびたびやってくる視察でした。他地区からの視察は、忙しい折にはとても面倒なことでしたが、自分が考えていることを分かり易く伝える反復練習になりました。また、視察者から出される質問や疑問は、新たな視点を得たり、考えを整理するきっかけにもなっていました。

 「奈良井」では3年5か月担当者をさせていただきましたが、村から求められた「プロ」としての仕事というより、自分自身の修行しかできなかったように思います。このことは、村や「奈良井」に対しては大変申し訳ないことではありますが、自ら学ぶ機会と良き経験をいただけたと感謝しています。


 その後も建造物の修復について専門的な研修などは受けることはできませんでした。なので私の独学での建造物修復が正当なものであるのかどうかは正直今でも分かりません。“独学”と言えば聞こえはいいのですが、正当な批判を受けないために、独善的であったり独りよがりになってしまってはどうしようもありません。しかし、そうした戒めがあるおかげで、今でも建物一つひとつに、関心を失わずに向き合っていられるのかもしれません。

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